「わしと吉田と、早い機会に肚を割って話していたら…… 吉田は、必ずわしを重用していたろう…… 話し合う機会なく過ぎたというのは 吉田とわしの意地のせいか……それとも“宿命”というべきものか」
おじさんだらけの自民党漫画「大宰相」第2巻、ラストシーンのセリフである。誰の言葉かというと、それは鳩山に政権を取らせた男、三木武吉だ。
2巻の表紙は鳩山一郎、副題も「鳩山一郎の悲運」で、人物紹介を見ても、鳩山は1巻から主役扱いをされている吉田茂のライバル、となっている。鳩山の話なんだろうな、そう思って読み始めたら、全然そうじゃなかった〜〜!三木の話だった〜〜〜!!!!!
三木武吉は自由党鳩山派として、ワンマン政治を動かす首相・吉田と対立し続けた政治家である。立ち回りはまさに「政治屋」という印象で、「バカヤロー解散」を演出したのは彼だったが、その一方で吉田内閣樹立の際に周囲を取りなしたのも三木だった。うっ、オタクが好きな“因縁”だぁ〜!
この三木、とにかくセリフがドラマティックなのだ。
例えば、病床の鳩山を鼓舞して、吉田政権の打倒を促すシーン。
「たとえ、君が死んでもだ!! その魂だけでもだ!! 俺は吉田をぶち倒してだ!! 鳩山内閣をつくってみせる!!」
「俺が先に逝った……としてもだ!!俺の魂が化けて出てもだ!!君の内閣をつくらずにはおかん!!泣くなっ鳩山!!」
凄いセリフである。命を燃やしている。
吉田を宿命の敵とし、必死に鳩山を“大宰相”にしようと動く三木。対立する一方で、吉田のことを話のわかる相手と強く認め、吉田に引っ張られないよう距離を置くことを意識しつつも、自分と吉田が組んだ未来を想像せずにはいられない……ってこれどこの少年ジャ◯プだよ!
これを全部政治家のおじさんだけでやっているので、つくづくすごい世界だと思う。
そう、政治家のおじさんたちしか出てこないのだ。盤上に立っているのは政治家で、政治家は政治家を見ている。民衆の暮らしを少しでも良くしたいとか、子供の未来を守るとか、そういうことを話すシーンはないし、そういう民衆と接するシーンも出てこない。「政権を取る」「蔵相でも文相でもいい」「わしと吉田の宿命」。ゲームだ。権力ゲームのトップに立つためのプレイなのだ、これは。
選挙の争点を自党が不利なものにさせないように強行採決を行う昨今の与党を思い出させる。政治の先にいる私たち市民でなく、政治そのものを見ている、そういうおじさんたちが、大宰相2巻にはたっぷり収録されている。
「しづかなる 夜半の寝覚めに世の人の 人の憂ひをおもふ苦しさ」
これは南北朝時代の政治家・足利直義の和歌だ。真夜中に世の苦しむ人々を思って眠れないというこの歌を、なんとなく思い出さずにはいられなかった。もちろん南北朝時代と現代の「憂ひ」は全く比べものにならないだろうが……。
前述の通りに自由党は内部対立が激化し、自由党内で議席の増減を争うこととなる。
無知な私から見ると、ここまで吉田派と反吉田派が対立するならば党に残る意味がないのではないかと安直に思ってしまうが、そうはいかない。独立したところで、彼らは政権を握れるような規模にはなれないと察知する。つまりこのまま居座って吉田を追い出し、党ごと掌握するのが最も効率的だということだ。なるほど、大事なのは理念というより、その理念で勝利することなのだ。おそらくは勝利しないと理念を実行できないという現実に即した結果、手段の目的化が起きたのではなかろうかと思う。
今さら当たり前のことを書いているのか、と言われるかもしれないが、私は「大宰相」を読み、その「当たり前」を咀嚼した。物語には、前提を何度も噛み直させる、そういう力がある。
大宰相ってどんな宰相だろうなあ、と、ここで改めて考えた。
「七十歳を目前にした私の経験によれば、人間は遺伝子三分、環境三分、努力三分、残る一分がツキ、運不運で、その生涯が決まる」
序文の一行目は、田中角栄の秘書を務めた早坂茂三氏のこの言葉である。
結局この2巻は、「残る一分」である「ツキ、運不運」だ。
行動の選択がひとつ異なっていたらどうなっていたか、それは分からないが、三木が若き鳩山に出会ったこと、三木と吉田が組まなかったことは、「残りの一分」のおかげだった……のかもしれない。
政治、ゲームっぽい。
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